大聖寺の歴史


大聖寺は、石川県南部の江沼平野に位置し、大正持・大勝寺・大正寺とも書きました。

この地名は、平安時代後期の長寛元年(1163)に原型が成立したとされる『白山之記』の、白山宮加賀馬場に属する白山五院の一つに由来します。

南北朝時代以降は加賀・越前国境の重要拠点の一つで、『太平記』によれば「建武2年(1335)の中先代の乱では北条方の名越時兼の軍を当地の狩野一族が大聖寺城で打ち破り、翌年には南朝方の畑時能が津葉五郎の大聖寺城を攻め落とした」とあります。

一向一揆の時代には一揆側の拠点となり、越前朝倉氏との間で激戦が繰り広げられました。

織田信長の加賀侵攻後は戸次右近・拝郷家嘉が置かれ、豊臣秀吉は溝口秀勝を城主としました。

秀勝の越後移封後慶長3年(1398)山口宗永が配されましたが、関ヶ原の合戦で西軍に属した宗永は前田利長との合戦で落城しました。

当地は前田領となり大聖寺城には城代が置かれましたが、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となりました。

寛永16年(1639)、前田利治の入封により大聖寺藩が成立しましたが、藩は城を再建せず城山(錦城山)の麓に館を構え、以来明治4年(1871)まで国替えも無く232年間藩治が続きました。

石高は創藩当初7万石でしたが、文政4年(1821)高直しにより10万石となり、大聖寺は10万石の城下町として九谷焼の創始に続く吉田屋の再興九谷焼・大聖寺絹・北前船等で発展しました。

明治以降は江沼郡域の政治・経済・文化の中心都市として繁栄し、とくに江戸時代から続く羽二重を主力とする絹織物は、技術革新を経てわが国有数の生産地となりました。

昭和33年(1958)、周辺9町村と合併し加賀市の誕生により、自治体としての大聖寺町は幕を閉じました。