大聖寺の人物


大聖寺藩では天保11年(1840)、好学の11代藩主前田利平が藩邸書院に『学問所(のちに『時習館』と改称)』を設置しました。

以来、時局の推移に対応する人材の育成が図られ、この尚文の気風は明治以降の学制でも大いに推進され、そうした風土の中から遠く海外や全国的に活躍する幾多の人材を輩出しました。

産業界では、九谷焼振興や鉛筆製造のほか地場産業の発展に辣腕を振るった『飛鳥井清』、日本最初の湖上汽船就航や兵庫製鉄所(のちの川崎造船所)設立等に活躍した『石川嶂』、芝浦製作所2代社長で日本放送協会(NHK)初代会長を務めた『岩原謙三』など。

学界では、大坂の緒方洪庵の滴々斎塾の7代塾頭となった医師『渡邊卯三郎』、日本住血吸虫を発見した病理学者『桂田富士郎』、日本で最初に物理化学の考え方を導入した物理化学者『大幸勇吉』、国体論に立つ反政党政治を説いた憲法学者『上杉慎吉』など。

スポーツ界では、日本最初のプロ野球チームを創設した『河野安通志』。

芸術分野では、赤絵と古九谷風色絵の名工といわれた『浅井一毫』や『竹内吟秋』、鉄打ち出し技術の鎚起法を創案した『山田宗美』、藪内流茶道10代家元『藪内竹翠』など。

文芸分野では、同人雑誌『虫篭』同人で正岡子規の弟子「子規十哲」の一人といわれた俳人『岩田鳴球』、日本の口語短歌の創始者である歌人『西出朝風』、「日本百名山」の著者である登山家『深田久弥』など、幅広い分野において、枚挙に暇がないほどの人材が出ています。