北国街道を歩く 其の参(本町から西町まで)


大聖寺藩領の北国街道は、串村の加賀藩領境から月津・動橋・大聖寺・橘駅を経て加越国境の一里塚に至る約22kmで、おおむね現在の県道串・加賀線(旧国道)にあたります。

大聖寺藩では城下町の西端に関所を置き、越前との往来を監視しました。

『其の参』のコースでは、大聖寺地区会館駐車場の一角に立つ道標(大聖寺本町)を起点に、福井へ向かう街道のうち、大聖寺地方町(大聖寺西町)の一里塚跡に至るルートについて紹介します。

街道沿いの名所旧跡や神社仏閣のほか、大聖寺らしい見どころについても合わせて紹介します。


コース案内 (所要時間:徒歩で1時間~1時間30分)

A 道標(大聖寺本町)

  ↓   5分

B 大聖寺中町

  ↓ 10分

C 大聖寺越前町

  ↓   5

D 大聖寺関町

  ↓   5分

E 大聖寺今出町

  ↓ 10分

F 大聖寺地方町(大聖寺西町)

  ↓   5分

G 一里塚跡




A 道標(大聖寺本町)

大聖寺地区会館駐車場の一角にあります。明治元年の再建時には古い道標が存在していましたが、昭和9年(1934)の大火時に不明となりました。現在の道標は、明治元年のそれを元の場所の筋向いに平成3年(1991)に復元したものです。江戸時代には道標横に高札場が設けられていました。

時鐘堂

時鐘堂は、大聖寺藩二代藩主前田利明によって寛文7(1667)年に造られました。当時の鐘楼は、3.6㎡で高さは5.7mありました。たびたび火災にあい、昭和9年(1934)の大火で焼失したあと長く再建されませんでした。時鐘は人々に時刻を知らせると共に、木戸や町会所の開閉を知らせるものでした。平成15年(2003)、現在の場所(当初は大聖寺地区会館の右隣の場所)に当時を再現して時鐘堂が建てられました。

B 大聖寺中町

町人町で、寛永年間(1624-1644)の大聖寺町家図では、50戸余の家割がなされていて、半数には屋号が記載されています。元禄年間(1688-1704)の町家図に町名があり、道幅は四間で桶屋・鍋屋・味噌屋などの小売商人が多くありました。本町との境の旧熊坂川に架かる鯰橋は、藩邸の外堀整備で同川を改修したとき鍛冶町から移されました。

深田久弥の生家

日本百名山の著者深田久弥は、明治36年(1903)3月11日、ここ大聖寺中町の深田屋紙店の長男として生まれました。当時の生家は昭和9(1934)年9月9日の大聖寺大火で焼失し、その後現在の建物が建てられました。

おかし処芳月堂

かつて大聖寺は茶の湯が盛んであったことから何軒も和菓子屋がありましたが、現在は3軒となってしまいました。その中の1軒、大聖寺中町の『おかし処芳月堂』です。

加賀神明宮

山ノ下寺社群の一つで、『山下神社』の名で親しまれています。明治初(1868)年の神仏分離まで当境内には真言宗慈光院がありました。白山宮や松尾神社など、境内社が多く春の桜まつりや、秋の八朔祭りで賑わいます。

C 大聖寺越前町

越前(現在の福井県)から北進して大聖寺関から大聖寺城下に入る、街道筋に沿った町人町でした。寛永年間(1624-1644)の大聖寺町家図に町名はないが、35戸ほどに屋敷割がされ城下建設の職人・日雇層が住んでいたと考えられます。天明6年(1786)の大聖寺絵図によると街道の両側に40戸余の町家があり、石屋・魚屋・大工・油屋のほか熊坂屋・三ツ村屋・小塩辻屋など近郷の村名を屋号とする家や、越前屋・細呂木屋・北方屋など越前の地名がついた町家もありました。関町との境には木戸がありました。

時習庵

国の登録有形文化財です(1999(平成11)年10月14日)。

山裾に位置する旧武家屋敷地に営まれた近代和風住宅です。道路に面する切妻造、2階建ての玄関棟の後方に入母屋造、平屋の座敷棟が接続します。座敷2室と広縁からなる座敷棟、昭和16年建替えの玄関棟ともに、木柄が細く、生漆塗りの上質な建築です。

D 大聖寺関町

延宝元年(1673)以前の大正持絵図では、街道北側(画像右側)に町家があり、南側は林野でした。天明6年(1786)の大聖寺絵図では、両側とも足軽や徒士の住居で、関所は道の北側にあってその向かいに女番所と家老生駒氏の下屋敷がありました。

関所跡

大聖寺関は、慶長15年(1610)頃にはすでに設置されていて、寛永16年(1639)の大聖寺藩創立により関番足軽10人余りが配備されました。越中境関(現富山県朝日町)とともに加賀藩の重要な関所として、有事の際には加賀藩が士卒を派遣しました。享和3年(1803)、口留番所に改称されました。明治2年(1869)、番所は撤廃されましたが、柵門は家老生駒氏の口利きにより宗寿寺の境内に移されて、山門となりました。現在、復元された関所門が跡地に建っています。

E 大聖寺今出町

明治2年(1869)に大聖寺口留番所(大聖寺関)が廃止されたあとにできた、牛ノ谷峠に至る道沿いの町です。

大岩山 明王寺

『お岩さん』の名で親しまれ、眼病平癒で知られています。8月最後の日曜日に行われる『夏の火祭り』が有名で、山伏による「柴燈大護摩供」ののち、百日の行と同じ功徳があるといわれる『火渡りの行』がおこなわれ、誰でも参加できます。

もっと詳しく⇒大岩山明王寺のHP

F 大聖寺地方町(大聖寺西町)

 百姓地。寛文5年(1665)関所の裏手に馬場が築造されましたが、のちに廃止されました。明治5年(1872)頃までは地方として村方に属していましたが、明治9年(1876)までには町方に組み入れられ、大聖寺地方と称しました。

G 一里塚跡

坂道を上り詰めたこの場所に、一里塚が設けられその横に『蕎麦茶屋』と呼ばれる茶屋が二軒ありました。(一里塚跡石碑があります)

ここから、1.5Kmほど山道を歩くと三木町です。三木町までのこの旧街道は、途中北陸高速道路によって一部分断されていますが、全て未舗装で往時のままです。