1600(慶長5)年8月3日の、大聖寺城を巡る戦いで前田軍に敗れた山口玄蕃頭宗永とその子右京亮修弘は、からくも大聖寺城を脱出し大聖寺新町まで逃れ、8月8日、親子共々自決したと伝えられている。
その後、親子それぞれの首塚が建てられたが、玄蕃の首塚は現在の地に、子右京亮修弘の首塚は全昌寺に移された。
有り
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