大聖寺城跡を歩く
大聖寺城は、大聖寺川や江沼盆地を通る街道を見下ろす小高い丘陵に築城されました。この地は交通の要衝を見張るのに適し、低山ながら急峻な地形なので、軍事拠点として利用されました。戦国時代から織田信長・豊臣秀吉の時代にかけて度々合戦の舞台となりました。江戸幕府の命令で廃城となった後、大聖寺藩成立後は人々の立ち入りが禁止された「お止め山」となり、大きな破壊を免れました。江戸時代が終わり、明治時代になっても大きく改変されることがなかったので、今もほとんどが残されました。地面を削り、盛って造る『土づくりの城』から石を多く用いる『石垣の城』へと変遷する、近世城郭の成立期の様子を良好に留めています。(リーフレットより)
注:以下の画像説明の番号・☆印は、リーフレットの『大聖寺城跡 イラストマップ』の番号・☆印に対応しています
☆ 贋金造りの洞穴
明治元年明治新政府より越後戦争の弾薬供給を命ぜられた大聖寺藩はこの洞穴の中で贋金を製造した。銀製品をとかし弐部金を造り山代温泉の湯に浸し通貨として広く政府の命を果たした後に露見に及び製造責任者市橋波江に切腹を命じた。然し子息には倍の禄を与へて功に報いた。この事件をパトロン事件という。(註 パトロンとは弾薬の意) (説明看板より)
☆ 山口玄蕃宗永公之碑
慶長5(1600)年、石田三成が徳川家康と戦を始めるにあたり、大聖寺城主であった山口玄蕃宗永は豊臣の恩顧を思い三成に応じた。ところが金沢の前田利長は徳川方に味方し、同年8月3日、大聖寺城に拠る宗永軍1,200人を25,000人で包囲攻撃した。鐘が丸から侵攻した利長方武将長連龍軍によって城の一角を破られついに落城、宗永・修弘(宗永の長子)・宗春(宗永の弟)は自刃し多くの部下も城と運命を共にしました。昭和50(1975)年、この供養碑は建立されました。
☆ 日本百名山発刊50周年記念碑
1964(昭和39)年7月20日、深田久弥(大聖寺中町出身)の名著『日本百名山』が新潮社から発刊されました。その発刊から50年後の2014(平成26)年7月20日、100人を超える人が出席する錦城山の東丸で、久弥の長男深田森太郎さんや次男深田澤二さんなど関係者の方々により記念碑が除幕されました。天気が良ければ、記念碑の向こうに白山が見えます。
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