北国街道を歩く 其の弐(敷地から本町迄)
大聖寺藩領の北国街道は、串村の加賀藩領境から月津・動橋・大聖寺・橘駅を経て加越国境の一里塚に至る約22kmで、おおむね現在の県道串・加賀線(旧国道)にあたります。
大聖寺藩では城下町の西端に関所を置き、越前との往来を監視しました。
『其の弐』のコースでは、敷地東交差点(大聖寺敷地)を起点に、大聖寺地区会館駐車場の一角に立つ道標(大聖寺本町)に至る、大聖寺町内のルートについて紹介します。
街道沿いの名所旧跡や神社仏閣のほか、大聖寺らしい見どころについても紹介します。
コース案内 (所要時間:徒歩で1時間~1時間30分)
A 敷地東交差点
↓ 10分
B 大聖寺敷地
↓ 5分
C 大聖寺天神下町
↓ 1分
D 大聖寺永町
↓ 5分
E 大聖寺菅生町
↓ 3分
F 大聖寺弓町
↓ 5分
G 大聖寺荒町
↓ 5分
H 大聖寺鍛冶町
↓ 1分
I 大聖寺山田町
↓ 3分
J 大聖寺京町
↓ 1分
K 大聖寺本町(青草通り)
↓ 1分
L 大聖寺本町
↓ 5分
M 道標(大聖寺本町)
A 敷地東交差点
縦に走る道路が北国街道で、この交差点の手前(東側)は作見地区(大菅波町)で、向う側(西側)が大聖寺地区(大聖寺敷地)です。
敷地一里塚の石碑
『天保4年(1833)の「三州測量図籍」によれば、敷地一里塚は敷地村から1000メートルほど天日茶屋寄り、春日町内のバス停付近の両側に築かれていた。これは明治初期に民間に払い下げられて耕地となった。一里塚近くには加賀藩時代に処刑された罪人を弔うため建てられたと伝えられる「涙地蔵」が存在したが、昭和54年に敷地町の東端、バイパスの陸橋下に移された。』
(敷地一里塚の説明板より)
涙地蔵
敷地町の東端に建つ地蔵です。もとは春日町の北鉄バス停前、北出木材店の場所にあり、昭和54年に現在地に移しました。この時、地蔵の台座下から経文が書かれた石が多く出てきました。これは、加賀藩統治時代に処刑された罪人を弔うため建てられたと伝えられていて、文化7年(1810)の「東都道中分間絵図」にも地蔵が描かれています。
B 大聖寺敷地
地名は菅生石部神社の鎮座地(敷地)に由来するといわれています。
空善寺
真宗大谷派。尾張出身の羽根田氏が開いたと伝えられ、宝暦10年(1760)に寺号を許されました。内陣の装飾の多くは、城下町人とみられる『はりま屋』が寄進しました。江戸時代後期の住持久世泰岳は、大田錦城に学び尾中村の畑地を開きました。
※ 大田錦城。儒学者。大聖寺新町で生まれ幼い頃より神童と称せられ、20歳の時儒学を志し江戸に出ました。著書の『九経談』は、当時江戸で大評判となりました。
C 大聖寺天神下町
大聖寺川に架かる敷地天神橋北詰から菅生石部神社の間にある町人町。本来敷地村(現大聖寺敷地)のうちでしたが、菅生石部神社の門前であるとともに永町から社前を右折して敷地村へと抜ける北国街道に沿うため、茶店などができて次第に町場化しました。
天明6年(1786)の大聖寺絵図には、道の西に北方屋・木綿屋、東にアメ屋・中田屋などの商家が並んでいました。茶店は敷地茶屋ともよばれ、名物は団子と幾世餅(いくよもち)でした。
菅生石部神社
大聖寺川の北岸、敷地天神山の麓に鎮座。祭神は菅生石部神で『延喜式神明帳』の江沼郡『菅生石部神社』に比定されます。旧国幣小社。鎌倉時代には菅生天神・菅生社と呼ばれ、戦国時代以降は敷地天神とも呼ばれました。慶長6年には敷地村で田二町、寛永15年には岡村で田二町・山一町一反を寄進されるなど、加賀・大聖寺両藩の保護を受けました。7月の例祭は藩祭とされ、大聖寺藩主以下がこぞって参詣しました。
富樫の馬塚
菅生石部神社前にあり、同一体が安置されています。江戸後期の『三州奇談』には、室町時代に冨樫三郎が神社の前で動かなくなった愛馬を切り殺して埋めた馬塚であると記されています。
また『ばつ憩紀聞』には、勅使から寄付された古い御衣を埋めた御衣塚であると記されていて、これは明治2年の『菅生石部神社建物配置図』に見える御衣塚と場所が一致し、往古の御衣塚であった可能性もあります。
D 大聖寺永町
町人町。長町とも書き、近世には四丁町とも称しました。天明6年(1786)の大聖寺絵図では112戸の町家があり、花房屋・庄屋・八日市屋・熊坂屋・塩浜屋・保賀屋・南郷屋・分校屋など近郷の村名を屋号としたものが多くありました。
毘沙門天
大聖寺藩の永町御蔵内(大聖寺高校敷地)の北方には、毘沙門天が北の守護神として祀られていました。今は、高校に隣接する路地の角に、毘沙門天廟跡の石碑が立ち、宝塔の上部が大切に祀られています。
大原神社
天明6年(1786)の大聖寺絵図によると、当神社は「薬師」と記されていて、「江沼志稿」にも永町に毘沙門社・薬師堂の2社があるとされています。江戸時代初期には、大原神社の地に真言宗歓喜院があり山伏いたと伝えられ、神仏習合の社であった可能性もあります。明治14年(1881)町内稲荷社を合祀、明治43年(1910)境内社河濯神社を合祀しました。
大聖寺藩米蔵跡
大聖寺藩の米蔵(永町御蔵)が大聖寺高校の敷地にあり、西蔵・南蔵・中立蔵・北蔵・辰巳蔵が建っていました。
大聖寺藩主国許別邸の茶室
大聖寺耳聞山町にあった、第14代大聖寺藩主前田利鬯の国許別邸の一部(茶室)を移築したものです。
江沼神社(大聖寺八間道)境内に建つ竹涇館も、別邸の一部を移築したものです。
山代道
永町中央やや南寄りに山代村(現加賀市山代温泉)・山中村(現加賀市山中温泉)へ出る山代道があり、天明6年(1786)の大聖寺絵図によると、この道に面して8戸の町家が記されています。
山中道道標
安政5年(1858)正月に大聖寺城下で商売をしていた山中温泉の商人が建てたもので、正面上段に「やまなかや菊はたおらじ湯のにほひ」下段には「是ヨリ三リ」と彫られています。
E 大聖寺菅生町
町人町で、本来は南側で接している菅生村(現大聖寺菅生)に属したが、大聖寺町の膨張につれて町方に組み入れられたと考えられます。天明6年(1786)の大聖寺絵図に町名がみえ、若干の足軽・徒士の家が混在するものの大部分は町家で、菅波屋・作見屋・敷地屋・桑原屋弓波屋・笹原屋・那谷屋など近郷の村名を屋号とする町屋が多数ありました。
市佐坊稲荷神社
大聖寺木呂場町から大聖寺菅生町に出る斜めの小路に沿った小さな区域は、かつて市佐坊と呼ばれていました(昭和33年(1958)大聖寺菅生町に編入)。その中程に、市佐坊稲荷神社があります。言い伝えによると、神社の後ろを流れる三谷川がたびたび氾濫したため、犬の沢(現、大聖寺下福田町)の市佐坊という修験僧にこの地に住んでもらいました。それ以来この地は市佐坊と言われ、稲荷神社は市佐坊稲荷と言われるようになりました。
F 大聖寺弓町
徒士・足軽などの下級武士居住地。天明6年(1786)の大聖寺絵図では、50戸中徒士12戸で、残りは全て足軽でした。荒町との境に木戸が設けられていました。
G 大聖寺荒町
町人町で、延宝元年(1673)の河道付替えまで大聖寺川は当町北裏を流れていました。天明(1781-1789)以前の大聖寺図には、「下新町」(しもあらまち)と記されています。下新町は、中町を「上新町」と称したのに対するもので、新町とは新たにできた町のこと。天明6年(1786)の大聖寺絵図によると、米屋・荒物屋・ロウソク屋・昆布屋・油屋などが軒を並べ、東部に鍛冶屋が数軒あり、専稱寺へ抜ける小路の入口に木戸がありました。
専稱寺
浄土真宗本願寺派で、龍華山と号し、本尊は阿弥陀如来。以前は上河崎にありました。専稱寺所蔵で現在石川県立美術館に寄託されている『絹本著色親鸞聖人絵伝』(県指定文化財)は、宝徳元年(1449)の製作で、蓮如の布教以前の数少ない四幅本絵伝です。
梅田菓子舗
天保年間(1831-1845)創業の和菓子店です。大聖寺町内に何軒もあった和菓子店も、今は当店を含めて3軒だけです。特大と普通サイズの『大聖寺どら焼』があります。
毫摂寺
真宗大谷派で、出雲路山と号し、本尊は阿弥陀如来。真宗出雲路派本山毫摂寺(現福井県越前市)から分かれました。寺伝によれば、南北朝内乱の兵火で京都出雲路(現京都市北区)の毫摂寺が焼失したため、三世善興と次男善知が江沼郡黒瀬村に移って毫摂寺を建立しました。寛永17年(1640)頃福田町に移り、文久2年(1862)永町に移転、明治36年(1903)現在地に移転しました。
松縁寺
浄土宗で、本尊は阿弥陀如来。初代大聖寺藩主前田利治の依頼で、寛永20年(1643)に金沢の法船寺の中興近誉が創建しました。当時、この辺りは松林で、松に縁があるとして『松縁寺』と名づけられました。
H 大聖寺鍛冶町
町人町。大聖寺川は延宝元年(1673)の付替え以前は当町東側の宅地裏を流れており、犀ヶ淵という崖地でした。寛永年間(1624-1644)の大聖寺町家図に6軒、元禄年中(1688-1704)の町家図に6軒、天明6年(1786)の大聖寺絵図に5軒の鍛冶屋がみえ、町名はこれに由来すると考えられます。
山田宗美生家
金工家山田宗美は、父から象嵌・打ち出し技術を習い、明治24年(1881)、一枚の鉄板から全形を鎚出する独自の鎚起法(ついきほう)を創案しました。作品は、ニワトリ・サル・ウサギなどの小動物が多く、内外の美術展で受賞30数回に及びました。特に、明治33年(1900)パリ万国博覧会をはじめ、各万国博覧会で出品した作品は高い評価を受け、名実ともにわが国工芸会の第一人者となりました。帝室技芸員に推薦が内定していましたが、発表直前の大正5年(1916)に病死しました。
『瓦上の鳩置物』『狛犬大置物一対』の二点が石川県文化財に指定されています。
本山瑞草園
創茶は寛文年間(1661-1673)という、加賀茶の元祖です。自家焙煎の棒ほうじ茶を始め、多種にわたる品ぞろえの茶専門店(コーヒー・紅茶・ウーロン茶を含む)です。
願成寺
真宗大谷派で、龍谷山と号し、本尊は阿弥陀如来。もとは江沼郡荻生村(現大聖寺荻生町)にありましたが、本願寺の東西分裂により、加賀市勅使町の浄土真宗本願寺派荻生園願成寺(現洗心寺)と二寺に分立しました。同寺には、応永26年(1419)の裏書がある『親鸞絵伝』が残されています。
本善寺
真宗大谷派で、和田山と号し、本尊は阿弥陀如来。
九谷焼の祖といわれる後藤才次郎定次刻銘の寛永18年(1641)の梵鐘があります。
I 大聖寺山田町
町人町で、大聖寺川はもと当町の裏側の犀ヶ淵を流れていました。明治以降、繊維関係の商店が多くありました。
J 大聖寺京町
町人町で、藩邸前の「御馬出」(おんまだし)から東に延びる通りに面した両側町でした。町の南側西端に、寛文7年(1667)第2代大聖寺藩主前田利明が設置した時鐘堂があり、それに隣接して寛政7年(1795)町会所が建てられました。明治以降金融の中心地区となり、町会所は明治22年(1889)の大聖寺町成立で町役場(現大聖寺地区会館)となりました。
K 大聖寺本町(青草通り)
京町から本町に出る道沿いを青草町といいました。天明(1781-1789)以前の大聖寺図には、「八百屋町」とあり、北側は京町、南側は本町に属していました。今もこの通りは「青草通り」と呼ばれています。
L 大聖寺本町
大聖寺町のほぼ中央部に位置する町人町です。
寛永年間(1624-1644)の大聖寺町家図、天明(1781-1789)以前の大聖寺図には、「はたご町」と記されています。旧熊坂川は古くは慶徳寺の前(北側)を流れていましたが、寛永16年(1639)の藩邸造営に伴う周濠整備で後ろ(南側)に付け替えられました。
慶徳寺
真宗大谷派の寺院で、正貴山と号し、本尊は阿弥陀如来。鐘楼の梵鐘は、初代寒雉の作です。鎌倉時代の作とされる聖徳太子像や、明治新政府が会津征伐の途中宿泊し高倉永祐総督から下賜された書一幅があります。
彫金工房月&カフェサロン銀
築70年余りの元歯科医院のレトロな建物です。その当時の待合室はカフェサロンに、診察室はギャラリーに、受付があった所はカウンター席に生まれ変わりました。
彫金工房月は、実際に制作している所を見たり聞いたりふれたり出来るオープンな工房です。
カフェサロン銀は、大正ロマンを思わせる雰囲気で、どこか懐かしい空間です。
もっと詳しく⇒彫金工房月&カフェサロン銀のHP
M 道標(大聖寺本町)
大聖寺地区会館駐車場の一角にあります。明治元年の再建時には古い道標が存在していましたが、昭和9年(1934)の大火時に不明となりました。現在の道標は、明治元年のそれを元の場所の筋向いに平成3年(1991)に復元したものです。江戸時代には道標横に高札場が設けられていました。
当サイトの著作物に関して、無断で使用・転載・複製することを禁止します。